妻は不要品、と言ったら怒られた

読んだ本はすぐにブックオフに売りに行く人もいるが、私はしばらく手元に置いておきたいタイプである。

それは「読み返したいときに持っていた方がよい」という実利的なことよりも、「読んだ本が私の血となり肉となる」という物理的な意味の方が大きい。多分レバーやステーキを食べるより血となり肉となっていると思う。医学的には知らんが。

読み終わった本が不要かどうかは考えればわかる。だいたい不要だ。確かに鍋敷きが無い時に本があると便利だか、それは読み終えてない本でも代替可能だ。こち亀全巻を鍋敷き代わりにしてみよう。きっとジェンガのようなワクワクとスリルが味わえるはずだ。

「私は不要?」とあえて聞かれた

別に普段その存在が不要かどうかなんて意識していない。すでにそこにあるものの存在意義を考えるのは、やたら哲学的なことを考えたくなったときくらいだ。「果たして肘裏のシワが必要か」って考えたことある??

で、妻に「あなたにとって私は必要ないの?」と聞かれたから「必要ないね、不要」と答えた。

妻「必要ないってどういうこと?」 私「無くても困らないということ」 妻「あなたには必要なものは無いの?」 私「ある。トイレに紙が無いと困る。トイレの紙は必要」 妻「私はトイレットペーパー以下ってことね」 私「そだね」

これを読んで私はとてもヒドイ人間である、と思った方は誤りである。全くもって私はヒドイ人間では無い。私は人間未満なのだ。この後妻にも「う◯こ」と言われたから間違いない。

妻「ペーパーの無い国もあるけど」 私「どこ?」 妻「インド。あ、夜ごはんは天ぷらです」 私「なるほど。インドは住んだことがないからね。ごはんありがとう。」

「必要ないね、不要」は余計だった

「私は必要?」に対して「必要ないね、不要」、この答えは間違っていた。あまりにも残念すぎる答えだ。口からでまかせ、目は口ほどにものを言う、論より証拠、口は災いの元だ。

「必要ないね、不要」は、いわば同じことの繰り返しである。「必要ない」と「不要」はどちらも同じだから二重表現だった。頭痛が痛い、光速の速さ、校則の規則、梗塞の脳みそと同じだ。

それに気付いた私は「必要ないね、不要を取り消す」とメッセージを送った。しかし私のテレパシーは届かなかったらしい。妻は全くメッセージに気付く様子が無い。感度が悪いのかもしれない。

しょうがないのでLINEで送ることにした。

「必要ないね、不要」は取り消します。正しくな「不用品」でした。

もちろん、妻が不機嫌になりゴハンが少し豪勢になったのは言うまでもない。妻は私を肥満にして復讐しようとしているのだ。